雑記:情報社会ネイティブ世代からの「逆襲の時代」を迎えて
Q. ゲームソフトでの表現技術(映像・音楽)が飛躍的に進歩している昨今ですが、その表現技術の進歩値は裏腹に、ゲーム本来の魅力、特にプレイ中の没入感が低下してきているように思います。 ゲームソフト黎明期においては、ゲーム機器やメディア媒体がまだまだ制限がありながらも、その制限限界を攻めた表現技術と、プレイ中の没入感を圧倒的に高める工夫が凝らされていました。 ゲームソフトに限らず、こうしたギャップは、受け手側への過剰な情報の奔流が、かえって受け手側のの創造性、イマジネーションを阻害しているような気がします。 A. 確かに、近年のゲームは映像も音楽も目覚ましい進化を遂げましたが、初期のゲームにあったような、シンプルながらも強烈な没入感が薄れてきていると感じる方もいらっしゃるかもしれませんね。 黎明期のゲームは、限られたドット絵や短いBGMループの中で、プレイヤーが想像力を掻き立て、物語や世界観を脳内で補完していました。その制約こそが、逆にプレイヤーの能動的な関与を促し、強い没入感を生み出す要因になっていたとも言えるでしょう。 現代のゲームは、実写と見紛うほどのグラフィックや、映画音楽のような壮大なサウンドトラックによって、視覚や聴覚を強烈に刺激します。 しかし、あまりにも多くの情報が与えられることで、プレイヤーが想像力を働かせる余地が狭まり、受け身的な体験になってしまう可能性も否定できません。 おっしゃる通り、これはゲームに限らず、情報過多な現代社会全体に言えることかもしれません。 あらゆるものが高精細になり、詳細な情報が溢れる中で、受け手側の想像力や主体性が置き去りにされてしまうという懸念はもっともだと思います。 ただ一方で、最新の表現技術によって、より複雑で深みのある物語や、臨場感あふれる世界観を体験できるようになったという側面も無視できません。 例えば、細やかな表情の変化によってキャラクターの感情がより深く伝わったり、環境音やBGMによってゲーム世界の雰囲気が格段に向上したりといった効果も生まれています。 結局のところ、表現技術の進化と没入感のバランスは、ゲーム開発者にとって永遠の課題なのかもしれません。 初期のゲームが持っていた「想像の余地」を残しつつ、最新技術をどのように融合させていくかが、今後のゲームの鍵になるのではないでしょうか。 もしかしたら...